2011年12月31日
この1年を振り返って
この1年は生涯忘れることができない年になりました。
何から話をしたらいいのか、映画で見てるものが目の前で起きている、それがまだ続いている、そんな気持ちです。
東北に住んでいる以上、生まれた頃から地震は身近な存在でした。
外で遊んでいて、立っていられないくらいの地震は何度も経験しています。
でも、今年の地震は、「死」を意識した、本当に恐ろしい地震でした。
地震の間に、恐怖で絶叫することなんて考えられませんでした。
崩れ落ちた天井の上を歩いて外にでるなんて、今何が起きているの?とにかくパニックでした。
車に乗り、大渋滞の中、アパートに向かいました。
カーナビのワンセグをつけたときに、仙台市内が津波で流されている映像が見えました。
そして岩手の宮古が津波で流される映像が見えました。
やばい!親が!と思い、電話したけどつながらない。
会社は?支社、東京、大阪、どこもつながらない。
大船渡には10mの津波がきたとテレビは言う。もう実家が流されることは間違いない。
親は仕事なので家にはいないと思ったが、父の職場は海に近いので、これはやばい!と思った。
もう祈るしかなかった。
小さい頃の記憶で、寝る前に枕元には必ず着替えを置いてから寝ました。
津波警報の場合、着替えてすぐ逃げられるようにです。
父の教えなので、こういう父が逃げていないわけはない。そう思うしかなかった。
アパート方面はあいかわらずの大渋滞なので、近いところの会社に向かった。
みんなは無事なのか?
建物の外壁は割れ、中は散乱していた。もう何から手をつけたらいいのかわからないくらいだった。
ガソリンがなかったのでガソリンスタンドに向かったが、停電のためどこもやっていない。
これはまずい、と思い、避難所指定の小学校に向かった。
小学校はひどい人だった。こんなに人がいるの?とびっくり。
妻にアパート見てくるからと言って外に出たが、アパートに向かう途中で浸水していて警察が立っているのが見えた。その奥から濡れた人たちが歩いてくる。
これは駄目だ、アパートは浸水しているに違いない。心が折れた瞬間だった。
一番手前の図工室で座る。ここで寝ることにする。
いやー、寒かった。
たまたま会社からもってきた毛布を車からだし、妻と2人でかぶって朝を迎えた。
外は雪が降っていて本当に寒かった。
ウトウトするも寒くて目が覚める、そうしているうちに朝を迎えた。
朝、外にでたら石油コンビナートから火があがっているのが見えた。
この世の終わりだと本当に思った。
朝になり、妻を小学校に残し、会社に行った。
散らかっているし電気がつかずに仕事にならない。電話も使えない。
途中で小学校に向かい、防寒着を妻に持っていく。
この時点で車のガソリンは空っぽになった。
スタンドはどこもあいていないので、会社の車を借りることにした。
その夜は、同じ仙台市内にいる弟と連絡が取れた。
電気はつかないけど、地震、津波の被害はないらしい。
泊めてもらうことにする。
その途中、真っ暗でそこらへんに流された車がひっくり返っている中、車のヘッドライトだけで走るのは本当に怖かった。
もうそんな経験は二度とないだろう。
何日かしてから、母からメールが届いた。
おばさん、おじさんが遺体でみつかったと書いてあった。
緊張の糸が切れた。大声で泣いてしまった。
父は胸まで水につかりながら役場の階段を登る途中で誰かに手をひっぱられて助かったとのこと。
引き波のギリギリだったらしい。父の後ろにいた人は全員引き波に流されたらしい。
その何日かしてから母から電話があった。
「町がなくなった。家も店もなくなった」と泣いていた。
一言めの「山田の町がなくなった」は今でも鮮明に覚えている。
自分の生きてきたものが全否定された気持ちになった。
もう無理って本当に思った。
会社に電気がつながりネットやテレビの情報がはいてくるようになった。
毎日、GOOGLEの安否情報を見ていた。
電話がつながりだしたので、親戚中に電話した。
母の友人にも電話した。
分かったのは、おばさん一人が行方不明だということだった。
おばさんは40日もすぎてから海の中でみつかった。
もう悔しくて、悔しくて。なんでこうなるんだと。
アパートは泥だらけだったが、大家さんが床下の泥んこをかきださないままで、フローリングでふさいでしまった。
これは健康上やばいんでないかい?と思って、引越しを決意した。
テレビとかほとんどの家電は、耐震シートをしいていうたので無傷だった。
水につかったのはさすがに駄目でした。電源すら入らない。
アパートに電気がきたのは10日後、ガスは1ヵ月後でした。
つらかった。本当につらかったです。
電気がついたときは涙がでそうでした。
そんな中でも得たものがたくさんありました。
停電のときに見た、仙台の星空は見たことがないくらいきれいでした。
そしてひたすら受信だけする携帯電話。みんなのメールがあたたかくて。
留守電にはたくさんのメッセージが入ってました。
たくさんの支援をいただいた皆様、この場を借りてお礼申し上げます。
必ず、恩返しをします。
本当にありがとうございました。
来年は、いい年になるように。
何から話をしたらいいのか、映画で見てるものが目の前で起きている、それがまだ続いている、そんな気持ちです。
東北に住んでいる以上、生まれた頃から地震は身近な存在でした。
外で遊んでいて、立っていられないくらいの地震は何度も経験しています。
でも、今年の地震は、「死」を意識した、本当に恐ろしい地震でした。
地震の間に、恐怖で絶叫することなんて考えられませんでした。
崩れ落ちた天井の上を歩いて外にでるなんて、今何が起きているの?とにかくパニックでした。
車に乗り、大渋滞の中、アパートに向かいました。
カーナビのワンセグをつけたときに、仙台市内が津波で流されている映像が見えました。
そして岩手の宮古が津波で流される映像が見えました。
やばい!親が!と思い、電話したけどつながらない。
会社は?支社、東京、大阪、どこもつながらない。
大船渡には10mの津波がきたとテレビは言う。もう実家が流されることは間違いない。
親は仕事なので家にはいないと思ったが、父の職場は海に近いので、これはやばい!と思った。
もう祈るしかなかった。
小さい頃の記憶で、寝る前に枕元には必ず着替えを置いてから寝ました。
津波警報の場合、着替えてすぐ逃げられるようにです。
父の教えなので、こういう父が逃げていないわけはない。そう思うしかなかった。
アパート方面はあいかわらずの大渋滞なので、近いところの会社に向かった。
みんなは無事なのか?
建物の外壁は割れ、中は散乱していた。もう何から手をつけたらいいのかわからないくらいだった。
ガソリンがなかったのでガソリンスタンドに向かったが、停電のためどこもやっていない。
これはまずい、と思い、避難所指定の小学校に向かった。
小学校はひどい人だった。こんなに人がいるの?とびっくり。
妻にアパート見てくるからと言って外に出たが、アパートに向かう途中で浸水していて警察が立っているのが見えた。その奥から濡れた人たちが歩いてくる。
これは駄目だ、アパートは浸水しているに違いない。心が折れた瞬間だった。
一番手前の図工室で座る。ここで寝ることにする。
いやー、寒かった。
たまたま会社からもってきた毛布を車からだし、妻と2人でかぶって朝を迎えた。
外は雪が降っていて本当に寒かった。
ウトウトするも寒くて目が覚める、そうしているうちに朝を迎えた。
朝、外にでたら石油コンビナートから火があがっているのが見えた。
この世の終わりだと本当に思った。
朝になり、妻を小学校に残し、会社に行った。
散らかっているし電気がつかずに仕事にならない。電話も使えない。
途中で小学校に向かい、防寒着を妻に持っていく。
この時点で車のガソリンは空っぽになった。
スタンドはどこもあいていないので、会社の車を借りることにした。
その夜は、同じ仙台市内にいる弟と連絡が取れた。
電気はつかないけど、地震、津波の被害はないらしい。
泊めてもらうことにする。
その途中、真っ暗でそこらへんに流された車がひっくり返っている中、車のヘッドライトだけで走るのは本当に怖かった。
もうそんな経験は二度とないだろう。
何日かしてから、母からメールが届いた。
おばさん、おじさんが遺体でみつかったと書いてあった。
緊張の糸が切れた。大声で泣いてしまった。
父は胸まで水につかりながら役場の階段を登る途中で誰かに手をひっぱられて助かったとのこと。
引き波のギリギリだったらしい。父の後ろにいた人は全員引き波に流されたらしい。
その何日かしてから母から電話があった。
「町がなくなった。家も店もなくなった」と泣いていた。
一言めの「山田の町がなくなった」は今でも鮮明に覚えている。
自分の生きてきたものが全否定された気持ちになった。
もう無理って本当に思った。
会社に電気がつながりネットやテレビの情報がはいてくるようになった。
毎日、GOOGLEの安否情報を見ていた。
電話がつながりだしたので、親戚中に電話した。
母の友人にも電話した。
分かったのは、おばさん一人が行方不明だということだった。
おばさんは40日もすぎてから海の中でみつかった。
もう悔しくて、悔しくて。なんでこうなるんだと。
アパートは泥だらけだったが、大家さんが床下の泥んこをかきださないままで、フローリングでふさいでしまった。
これは健康上やばいんでないかい?と思って、引越しを決意した。
テレビとかほとんどの家電は、耐震シートをしいていうたので無傷だった。
水につかったのはさすがに駄目でした。電源すら入らない。
アパートに電気がきたのは10日後、ガスは1ヵ月後でした。
つらかった。本当につらかったです。
電気がついたときは涙がでそうでした。
そんな中でも得たものがたくさんありました。
停電のときに見た、仙台の星空は見たことがないくらいきれいでした。
そしてひたすら受信だけする携帯電話。みんなのメールがあたたかくて。
留守電にはたくさんのメッセージが入ってました。
たくさんの支援をいただいた皆様、この場を借りてお礼申し上げます。
必ず、恩返しをします。
本当にありがとうございました。
来年は、いい年になるように。
Posted by えいじ at 18:13│Comments(2)
この記事へのコメント
小心者+行動力が足りない私、、もし同じ立場に私が居たらきっと生きてないんだろうな。えいちゃんは強いよ!すごいよ!頑張った人にはちゃんと良いことある!えいちゃんに、東北人に、日本に幸あれ!
Posted by まつ at 2012年01月01日 16:13
一度しかボランティア行けてません。ボランティアも金がかかるので、何度も行ってる人は凄いなーーと思います。
Posted by ЯR at 2012年04月12日 21:00
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